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大学教員として生きる道

著者は私大の准教授です。大学教員になるまでの経緯、日常の出来事などを記録します。

人生に影響した書籍

 

40歳を過ぎて,平均寿命(男性80.98歳,2016年)の半分が終わったと感じ,おそらく残りの40年の方があっという間に過ぎるであろうと思うと,人生でやり残したことがないように日々充実させていきたいものだと思う.

 しかしながら,人生は短すぎてあれもこれも達成することは難しい.

例えば,医者になって,司法試験に受かり弁護士になって,技術職に就き,一流の商社マンになり,プロスポーツ選手になるなんてことは不可能に近いと言えるだろう.中には上記の2つ,3つをかけ持てるような強者もいるかもしれないが,類まれな才能と努力が必要だろう.

 

自分があきらめた夢や,もう一つやりたかったことなど知らない世界のことを簡単に知れる方法がある.その一つは本を読むことではないだろうか.様々なジャンルの人と仲良くなりお話をすることも見識を広げることにつながるが今回は本について考えてみる.

本を読むことはフィクションであれ,ノンフィクションであれ,他人が考えたこと,経験したことを学ぶことができ,限られた一生の中で素晴らしいことだと思う.そこで私がこれまでに人生を変えるというと大げさかもしれないが,少なからず生き方,考え方に影響したであろう本を紹介する.

 

ヴィクトール・フランクル箸「夜と霧」

 この本との出会いは,とある行政の首長さんが紹介していて知ったのですが非常に衝撃を受けた.あらすじなどは他に書かれているので省略するが,著者がアウシュビッツ収容所で酷い目に遭いながらも,自分を客観視して生きる姿は,どの様な状況に置かれても生きること,正直に生きようとすること,賢く生きようとすることの意義を考えさせられた.生き延びる為には,人の命を奪うもの,良心の逆らうもの,良心のかけらさえ失くすものなど人の生き方についても考えさせられた.また,集団心理についても深く考えさせられた.

 

遠藤周作箸「沈黙」

 この本との出会いは,長崎市外海にある遠藤周作文学館に立ち寄ったことがきっかけとなった.それまで,遠藤周作という作家について名前を知っている程度であったが,たまたま通りかかったこの地で,最高にきれいな夕日をみたこと,そしてそこで手にした「沈黙」を購入した.江戸時代のキリスト教布教とその迫害をテーマにした作品だが,その中の人間模様は生き方を考えさせられる.信念とは何か,神の存在,人間の残虐さ,生きるための手段の取り方など正解がない中でのそれぞれの考え方など大変深い作品だ.

 

なお,この書籍を遠藤周作文学館で手に入れたが,遠藤周作の直筆でサインが書いてあった.

 

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ヘミングウェイ箸「老人と海

 この書籍は私が中学生の時に読んだ.ほとんど内容は忘れてしまっているのだが,主人公が手漕ぎボートのような小船で,カジキマグロを釣り上げるという内容だ.一人の人間対カジキマグロの孤独な勝負,どうすれば勝つことができるのか,大きな相手に対して戦う姿,状況が印象に残っている.そして,その釣り上げたカジキマグロがサメに食べられてしまうが,勝利したことが誇りであり,成功とは何かを考えさせられた.

 

これから先も人生を変えるような,生き方に影響するような本との出会いが楽しみである.なるべくなら若いうちに良い本と出会った方が,その後の人生が長いので望ましいだろう.

 

 

 

 

 

 

 

今まで読んだ自己啓発本は役に立っているのか?

大学卒業後から20年近く経ったが,これまで数々の自己啓発本を読んできたと自負している.自己啓発本を読んではやる気になり,一定期間が過ぎるとその内容が記憶から薄れて行き,数か月経過しては別の自己啓発本を読んでやる気になり・・・ということを何十回と続けてきたように思う.

 

そこでこれまで読んできた自己啓発本を振り返り,その内容をまとめることで理解を深め実行に移せるようにしたいと思う.本の主旨と私の理解がずれていることもあるかと思うが,あくまでも私自身の記憶想起のために書いているのでご容赦いただきたい.

 

最も印象に残っているのはスペンサージョンソン著の「チーズはどこへ行った」である.

この本は,自身をネズミにたとえ,チーズは生きていくための餌であり,一つのチーズにかじりつき,残り少しになってもまだそのチーズにかじりつくような生き方をするのか,チーズが少なくなってくる前に,別のチーズを探す旅にでるような積極的な生き方をするのかを例えている.私自身の生き方に照らし合わせると,20歳代30歳代は冒険型の後者であったかと思うが,40歳を過ぎたころから少し前者になりつつあり,そのうちチーズがなくなるのではと恐ろしく感じる今日この頃である.守るものがあっても常に攻める姿勢で人生を渡りたいものだ.大学経営に置き換えると,学生の数が減ってきているのに従来の業務をこなすだけでは発展性がないばかりか,そのうち高校生に選択されない魅力のない大学になってしまうだろう.そうなる前に魅力あるカリキュラムを提案したり,組織を改編したり,興味の沸くような授業を展開する必要があるだろうと思う.

 

次に思い出すのはブライアントレーシー著の「10年かかるところを2年でできる」や「カエルを食べてしまえ」という本だ。前者の本は新入社員時代にギラギラしていた頃に読んだ.未だにその本の付録についていた21つの行動目標のカードを手帳に入れている.もうボロボロになっているが時々見直すことがある.特に印象に残っているのは,「対人」の項目に「周囲の人と接する時は,最も重要な顧客と接する様にしなさい」というところだ.カエルの方は,一番重要であるが嫌な仕事でやりたくない,後回しにしたい仕事をカエルに例え,その「カエル」=「嫌な仕事」を先に食べてしまえ=やってしまえということだ.

 

その他,ドラッカーの「マネジメント」,「プロフェッショナルの条件」,スティーブンコービーの「7つの習慣」,茂木健一郎の「脳を活かす勉強法」シリーズ,和田秀樹の勉強法に関する書籍,ピーターフランクルの頭が良くなる書籍などなど挙げれきりがない.

 

様々な自己啓発本を読んで思うことは,結局のところ行動するのは自分なので自分自身でやり方を見つける事が大切で,自己啓発本を読んでも能力が向上したり,出世したりすることはないと思う.映画を見て主人公になったつもりになるのと似ているのかもしれない.自己啓発本を読むとあたかも,その本に書かれている仕事のやり方を手に入れたかの様に錯覚してしまうのは何故だろうか.

 

イチロー選手はあるインタビューの中で,あまり本を好んで読まないと言っており,その理由として,本には答えが書かれているので,そこは自分自身で考えたいという様な事を言っていた. なるほど,言っていることはよく理解できる.

本という形式ではなくても,人に伝える指導という場面でも同じようなことが言えるのではないだろうか.一番重要な,肝となる部分は自分で考えなければならないが,その自分で考えるきっかけを作ることが指導者に求められることであろう.

そうであれば,自己啓発本も当人が考えるきっかけを与えるものでないと意味がない.これはコンサルと企業,教師と生徒,指導者と選手,上司と部下などの関係であっても同じことがいえるのではないだろか.

 

 そのように考えると,自分で考えるヒントとなった自己啓発本は実際役にたっているかとも思うが,マニュアル的に〇〇をすべき,△△の行動は□□□のようにすべき,というようなものはあまり役に立たないであろう.

 

結論をまとめると自己啓発本に書かれているような内容を参考に,或いは自己啓発本など読んでいなくても,常に自身で考えて行動し,アウトプットを出せる状態になっていることが重要だと思う.

 

  

 

 

 

 

 

新しいことを習慣にするためには

人生を成功させるための重要な要素に継続があると思う.

何事も継続によって成就するということは疑いもない事実だ.

 

例えば「英会話」,「料理の腕前」,「引き締まった身体」など特別な能力を持っていなくても,継続することで手に入れられると思う.

 

しかし,英語をネイティブと対等にしゃべれるようになったり,料理人にも負けないようなディナーを毎日作ったり,真夏の海で裸で引き締まった身体で太陽を浴びたり,することは,普通の生活をしていては難しい.

 

毎日,英会話の学習を行い,毎日,身体を鍛え,毎日,手の込んだ料理を行うことができないことは,「意志が弱いこと」が原因のように思う.

したがって,成功している人は相当な意思の持ち主であると思える.しかし,成功している,或いは成功した人が,強烈な意思を持って相当な努力家かというとそうではないように感じる.つまり,成功している人が,その成功に向けた行動をとるときに,その行動を行うか否かを悩みながら行っているのではなく,自然とその行動を行っているように思う.

 

例えば英会話が上手な人が,英語を勉強するか,TVを見るかの選択をしたり,一流の料理人が包丁を研ぐのをめんどくさがったり,一流のスポーツ選手が日々のトレーニングを行うことを躊躇したりしていなく,上達するための行動を自然と毎日こなしているように思う.

 

ある行動をとるときに確かに意志の強さは重要な要素かもしれないが,意志のみではなく,日々の行動をあたりまえにできることが重要なことだと思う.では,その当たり前の行動として習慣づけるためにはどのようにすればよいのかということが重要だ.

その答えの一つに,行動目標を小さくすることが挙げられる.すなわち,日々の小さな目標を達成することにより,継続を優先させることが重要だと思う.

 

「目標を小さくする」⇒「目標を達成する」⇒「継続する」⇒「継続することにより行動目標を強化する」

 

※ 強化とは,行動の内容をより充実させていくことを意味している.詳細は以下の文中述べる.

 

上記の方法は「小さな習慣,スティーブン・ガイズ著,ダイヤモンド社」を参考にしているが,実際私自身も試してみて,この方法が新しい習慣を取り入れるための行動科学領域で最も重要なように思っている.プロチャスカの行動変容理論の発展版,実践版と言えるかもしれない.

この本で示している内容を如実に表している1フレーズを紹介する.

「始まりを重視し,モチベーションよりも行動を先行させ,小さなステップを積み重ねることが大きな前進につながると信じる人生哲学」

 

 

 もう一つ,私自身が重要視している考え方を挙げる.

 

「できない理由を考えるのではなく目的を達成する方法を考えなさい.」

 

という考え方だ.これは,私が以前勤めていた会社の社訓の一つで今でも大切にしている.

 

「時間がないから」

「お金がないから」

「場所がないから」

「仲間がいないから」

 

などのできない理由を探すと永遠に挙げられる。

 

「時間がないなら,短い時間でどうやって工夫しようか,何かを止めて最も重要なことに時間を使う」

「お金がないなら,どうやってお金を集めるか,お金がなくてもできる方法を探す」

「場所がないなら,場所を作る,場所を探す,移動手段を検討する」

「仲間がいないなら,仲間を募る,仲間に声をかける,仲間に入る」

など色々と工夫ができるはずである.

 

できない理由を述べるのではなく,できることを少しでも実行することが重要だ.少しでも行うと前向きに考えることができ,その少しの実行から大きな行動につなげられる.少しの実行から,その実行が継続でき,さらに実行する内容を濃くしていくことは心理学では「強化」という.この「強化」には意志の力というよりは,少し実行することによって得られた達成感などから,自然に行動が強化されると理解できる.

 

ということで最後にまとめると,私自身は下記の小さな目標を達成すべく行動をしていこうと思う.

 

〇毎日,50文字の文章を書く.

〇毎日,スクワットを10回する.

〇毎日,パター練習を10球行う.

 

この続きは1ヶ月後,1年後,10年後にどの程度,達成できたかまとめようと思う.

 

大きな目標はすばらしいが,重要なのは行動だけ!

 

 

 

 

 

 

 

 

目標設定

2018年もスタートして早いもので既に半月が経過した.

 

私は新年のルーティンとして,この1年の目標を立てて紙に書いて,毎日見えるところに掲示している.

 

今年の目標は,国際学会2つ発表,国内学会3つ発表,論文3本,その他研究推進,学内貢献などである.

 

この立てた目標がどの程度達成できたかは,新年の目標を立てるときに昨年の出来具合を自身で評価している.毎年,達成率は70~80%と言ったところだ.

 

何故,100%,或いは120%の達成を成すことができないのか私なりに自己分析してみたところ,年始の当初に計画していない,すなわち想定外の仕事が入ってくることが挙げられる.例えば,論文の査読,重要な人物にお願いされる仕事,学内外の想定外の雑務などが挙げられる.具体的に昨年度,引き受けた想定外の仕事して学会の理事,評議委員としての活動,助教への研究指導,国際学会の運営委員などが挙げられる.

 

しかし,これらの想定外の仕事は,私自身の仕事の幅,人間関係を広げたりすることもできるので,なるべく引き受けるようにしている.ということで言い訳がましいが目標達成率が100%まで行かないことは私のなかではOKということにしている.

 

最も重要なことは,昨年に何が達成できて何が達成できていないのかを振り返ることであり,次の1年に何を目標にして行動していくのかということを明確にすることである.ということで,既に1年の24分の1が過ぎてしまったが日々,時間を無駄にせず頑張ろう.

 

 

論文の査読(国内誌)、パートⅡ

以前、論文の査読について下記の投稿を行なった。

今回はそのパートⅡ

 

shiranaitoson.hatenadiary.com

 

ここ数年、査読を引き受けるようになって感じるのは、どうも年間のサイクルで査読をする機会が多いのは年末のようだ。何故、年末が多いのかは幾つかの理由があるだろう。まず、学会シーズンが終わった後の晩秋ということが考えられる。次に今年度中に論文をパブリッシュするための最終時期であることが挙げられる。さらには、学位審査、昇格や採用の資格審査に間に合わすということもあるのだろうと思う。

 

いずれの理由にせよ論文を投稿することは研究者の大切な仕事の一つなので、査読をする機会が与えられた場合には、こちらも仕事の優先順位をチェンジして査読に取り掛かることにしている。

 

担当するジャーナルのレベルにもよるのだが、よほど酷い内容でなければ丁寧に査読を行い要修正で返却することが多い。特に若手の研究者が書く論文はアイデアに優れ世に出た方が良いという判断もあるし、教育的な意味を含めて丁寧なチェックと指摘を心掛けている。最近の若手研究者が国内誌に投稿する論文は、海外ジャーナルでリジェクトされてランクを落として、日本の学会誌に投稿して来るような例もある。或いは海外誌のようにアイデアの一発勝負で雑な文章で投稿してきたり、既に海外で行われた研究を単に日本人を対象にしただけのような研究もある。この様な研究のオリジナリティの判断も重要である。査読をする側も常に最新の情報に触れる機会を作っておかなければならない。

 

さらに、日本語の国内学会誌の査読や編集を担当する立場として思うのは、日本語ならではの丁寧な説明や分かりやすさも重要だと思っている。何故ならば論文はアクセプトされることがゴールではなく、日本語の論文が公開されることにより研究の成果を多くの日本人が理解することに意味があると思うからである。英文誌に沢山の研究業績があり、未だ安定した職につけない若手研究者は是非、この辺りのことをしっかりと理解して、国内の学会誌、或いは商業誌などに投稿して欲しいとも思う。

 

 

 

 

研究はやっぱり楽しい!

久しぶりに実験をした.

 

大学にいると教育や事務仕事にかける時間が多くなり,思うように実験が捗らないが,私は年に数回は研究を進めるためのデータ取集を行っている.

私はヒトを対象とした研究を行っているので,研究のヒントは常に人にある.実験をすると論文には記載しないような新たな発見がある.今回の実験も,わくわくするような,やっぱりそうかー,何故,そうなんだろうか? など様々な疑問が沸いたり,今までの仮説が検証されたりする.まさに机上の空論ではなく,現場で起きている事象をとらえることができる.本来ならばこのような楽しい時間を沢山作りたいものだ.

 

准教授になってしまうと,PDや博士課程の院生時代のように研究に時間を割くことが難しくなってしまう.これは,職を探しているPDや助教に伝えたいがテニュアをとることが良いか悪いかという議論もあると思う.もっと研究をしたいと思う方は安易に大衆大学や地方大学のテニュアを獲ってしまうと思うように研究が捗らない状況は容易に想像できる.そして,研究への情熱を失う危険もある.任期のある職に就いていた時の方がやらなければ次がないという危機感が研究への情熱を生み,研究成果をあげることができればより良い環境で研究ができるという夢を抱けると思う.

 

 

任期付き助教について

任期付き助教であった時に,旧友になんの仕事しているの?と聞かれ「今,にんきつき助教だよ」というと,人気がある教員なんだね・・・と言われ,いやいや「人気があるのではなく,任期があるのだよ.」と言って笑い話になったことがある.

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さてこの任期付き助教の学内での立場だが,大学によって様々異なる.私自身も任期付助教をいくつかの大学で経験してきたが,研究個室があって,准教授や教授とほぼ同じ扱いの大学もあれば,教授の傘下で机一つだけ研究室の端に確保されていたり,中学や高校と同じ職員室のようなところで過ごしたこともある.

 

今回はこの任期付助教について話をすすめたい.

 

大学教員をしていると様々な仕事を引き受ける場面があるが,どこまでが仕事かその範疇に悩むことがある. 

最近,微妙に感じるのは助教への研究指導だ.

 

助教文部科学省によって下記のように定義されている.

助教(じょきょう)は、日本の高等研究教育機関において、学生に対する教授、研究指導、または自らの研究に従事する教員のことであり、2007年4月1日より正式に導入された。 大学の場合、現行の学校教育法では、教授、准教授、講師の次の職階に位置する。

 

しかし,実際には教授の補助であったり,授業補助をおこなう場合もある.これは大学によって異なることがあるのだという.先に挙げたように実際に私も助教を経て准教授になったので大学によって助教の業務内容が異なることは身を持って経験している.助教の仕事が大学によって異なることは下記のJrec-inの公式サイトに紹介されている.

 

Case.7 助教なのに!?

 

私が勤務する大学では,多くの大学と同じように助教に任期期間が定められているため,助教の任期更新には一定の業績が必要である.その業績は本人が努力して自身の研究テーマに沿って学会発表したり,論文を書く必要がある.しかし,本人にその能力が著しく欠損している場合もある.そもそも本来,助教に採用される時点で一定の研究能力があることが前提なのだが,助手と助教が混同していた時代の遺産もあり,研究能力が全くない人物が助教に採用されている例もある.

 

学部生より低レベル,統計が分からない,英語どころか日本語,専門用語が通じない,期限を守らない,我が強い,などなど全く困った助教を指導するのが私の仕事の一部になっている.

 

本来,研究方法論は学生時代に学ぶべきだが,それを学ぶ機会がなかっただけだろうと割り切って研究指導している.聞いた話によると部下に仕事を強制するのは,パワハラになるらしい.つまり「任期を更新するためには論文を書け」と口に出して言うことは「アウト」のようだ.しかし,部下に仕事を教えないこともパワハラになるらしい.つまり論文の書き方を教えないことで任期切れになることもパワハラらしい.じゃあどうすりゃいいの・・・

 

一方,平成26年中央教育審議会がまとめた「大学のガバナンス改革」では,人事に関する学長のリーダーシップとして「教授会での教員業績審査に際しての利害関係者の関与の有無や,教育研究業績が十分であることを確認しているか,といった選考の手続や,判断の適正性の確保に努めるべきであり,適正でない場合には,教授会に審査を差し戻すことがあってよい」としている.

「大学のガバナンス改革の推進について」(審議まとめ)(平成26年2月12日 大学分科会):文部科学省

 

一体全体,私が助教の研究指導をする必要があるのか,の答えは深い深い闇の中で私の心の底にある.

本来,研究の進め方など基本的なことは大学院で学ぶべきことだ.

最終的には本人が頑張るしかないのだが,頑張る気があってもやり方が分からないのであれば手を差し伸べようと思う.