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大学教員として生きる道

著者は私大の准教授です。大学教員になるまでの経緯、日常の出来事などを記録します。

時間は作るもの

いつも時間に追われているような感覚になる人はいないだろうか?

 

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私の回りにもそのような人を良く見るし、かつての私がそうであった。

担当しなければならない授業コマ数が多く、校務に追われて、一体、いつ研究をする時間があるのだろうかと愚痴をこぼしていたりした。そして、帰宅時間が遅くなり、朝起きるのが辛くなり・・・の悪循環。

 

確かに、研究を進めるにはまとまった時間が必要だと思う。

しかし、時間が永遠にあったとしても研究が進まないことがある。例えば、読もうと思っていた本に中々手をつけられたかったり、やろうと思っていることに集中できなかったりすることがある。しかし、読もうと思っていた本を電車の中では読むことができたり、やろうと思っていることを出張先のPCで済ますことができたりすることがある。それは、限られた時間と空間が可能にさせていると思う。

人の行動は環境が左右すると言っても過言ではない。

やろうと思っていることが中々、進まないのはその人の意志が弱いというだけではなく、環境を変える必要があると思う。

 

もう一つは、時間のかたまりをつくるための努力が必要だ。細切れの時間が沢山あっても、人の思考回路も細切れになりじっくりと物事を考えることができなくなってしまう。まとまった時間を確保して、高い集中力を維持することは最も重要だ。そのためには、お酒を飲み過ぎず食事に気をつけること、疲労をためないこと、健康状態を最良に保つことなどが大切だ。

そこで私なりに研究を進めるために努力していること、努力しなければならないことを箇条書きにしてみた。

 

モチベーションを維持するため

・定期的に勉強会や研究会、学会などに参加する

・教え子と会う、恩師と会う

・新聞を読む

・実生活の中で研究との関連性を常に考える

 

時間を確保するため

・メールを見る時間を限定する

・ネットサーフィンをしない

・細切れの時間は研究ではなく作業ベースの雑務をする

 

仕事を進める環境を変える

・たまには図書館を利用する

・カフェを利用する

・自宅で仕事をする

 

将来の自分への投資を惜しまない

・健康(運動、食事、睡眠、口腔ケア)

・語学力UP

 

 

 

 

チャレンジする勇気とやめる勇気

1.何かを成すためには何かをあきらめる必要がある.

2.どんなことにも挑戦する勇気が必要.

 

この対立する2つの事象,どちらが正しいのか,いつも考えながら行動している.

基本的なスタンスとして,何かにチャレンジして無駄になることはないという信条を持っている.たとえ失敗したとしてもチャレンジしたことは,必ず次につながると思う.しかしながら,大学院を修了しようと思ったら仕事をやめる勇気は必要だと思う.特に後期課程においては仕事をしながら博士号を取得するのは,相当な努力が必要だ.

 

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私自身は,サラリーマンをやめて大学院に進学した経験がある.大学院の学生時代は,学生寮に宿泊し,薄給の職に就き,家庭教師などのアルバイトなどで何とか20歳代,30歳代前半を食い繋いだ.本当は仕事をせずに学問に没頭したかったが生活ができないと学問さえできない.

最近の社会人向け大学院は,働きながら修士課程を修めることができることを売りに多くの大学で開講している.多くの人が学問にチャレンジできる環境が整いつつあることは大賛成なのだが,本業を継続しながら論文の作成にあまり時間をかけず片手間のように仕上げ,審査を通すことには反対だ.

吉田松陰は,「学は人たる所以を学ぶなり」という名言を残している.

 

shoin-jinja.jp

  

学問を出世のためだとか,名誉,名声のために行うことは本末転倒で,”人として正しい生き方を学ぶことにある”という意味のようだ.修士号,博士号の修得は企業や研究機関では次のステップに進むための重要なマイルストンの役割をしているのかもしれない.最近の大学における教員資格審査は厳格で,論文の数,雑誌のランクなどこと細かに調べる傾向がある.そのこと自体は教員の努力を正しく判断するという意味で重要なことだが,業績を上げることが目的になっている人を見かけると残念な気持ちになる.そして先に挙げた吉田松陰の教えにもどる必要性を感じる.

 

人生はチャレンジする勇気,やめる勇気の二者択一の連続だ.何にチャレンジして何をやめるのか,日々葛藤しながら後世に何かを残せればと思う.

英語の論文をパブリッシュする意義

先日、モスクワのとある企業の研究者からメールが来ているのに気づいた。

どうやら、私の論文を読んで内容に興味を持ったらしい。

 

今や世界は小さいもので、英語で論文を書けば世界中の何処からでも、ネットを通じて論文にアクセスして読むことができ、更にはメール一つでその内容にまで踏み込んで瞬時に連絡をする事が出来る。一体、30年間前、誰がこのような世界を想像したであろうか?  30年前、私が小学生だった時、コンピュータゲームはファミコンゲームボーイ、まだインターネットはなかった。携帯電話もなかった。もちろんメールもない。

 

英語で論文をはじめて書いたのは10年前だった。何となく日本語で書くよりカッコいいし、論文の価値も高くなるだろうと言う浅はかな気持ちであった。本来は論文の内容を日本人に沢山読んでもらいたいならば日本語で書くべきだろうし、世界的にみてもインパクトがある、新規性があるということであれば英語で書くべきだと思う。はじめて論文を英語でパブリッシュしてから、今まで何本か英語論文をだしてきた。これまで具体的な内容にまで踏み込んで何らかのアクセスが入る事はなかったが、今回は何やら面白くなりそうだ。 もしかするとブレークスルーするきっかけになるかもしれない。いや、ブレークスルーさせなければ今まで国の予算を使って研究しているのだから、その責任を果たす使命がある。このロシアの研究者の事は引き続き別の機会に進捗をまとめたいと思う。

 

英語で論文をパブリッシュする意義は、世界的にみて面白い事、価値がある事は共有しようと言う研究者の熱い志だろう。そこには単に自国の国益のみを優先すると言う様な小さな視点ではなく、世界共通の悩みであったり問題点を解決する為の試行錯誤がある。その様な大きな心で研究を進め、自分の身の周りから少しづつ世の中を良くしていければと思う。もう一つは、これは研究者のスタンスなので一概には言えないだろうが、論文をパブリッシュする事は研究者の大切な仕事として、それをどの様に社会に生かすのかと言うもう一つの大事な仕事がある。二兎追うものは一兎も得ずという諺があるが、私はどちらも成し遂げれるような研究者&実務家でありたい。

 

たまに一体、このブログ記事は誰に向けて書いているのか、まとまらなくなってくるのだが、結局は自分の頭の中を整理する為かなぁと思う。と言う事で個人的なつぶやきのようなブログ記事ですがここ迄読んでくれた読者に感謝です。

やっと終わったセンター試験

やっと終わった〜という達成感は受験生だけでなく、試験を運営している大学教職員も同じように感じている事と思う。昨日、今日はセンター試験の試験監督を担当した。この数年、毎年のルーティン業務となっている。

 

受験生の皆さんには、日頃の学習成果を発揮して欲しいと思うし、高校から大学生になる為に全国共通で同じテストを同時に行うセンター試験の実施には基本的に賛成である。だが、実施にあたり多くの大学教職員がセンター試験の運営に駆り出されていることは知ってもらいたい。

 

試験監督をする上での説明会に半日、資料の読み込みに半日、そして実施日2日を合わせた合計3日間は、センター試験に時間を取られる。予備日のスケジュールも2日間、開けておかなければならない。1年間の内、365日分の3日がセンター試験に費やされている。いや、別の見方をすると自由に研究時間が取れる土日で考えると、1年間の土日の日数は104日なので、104日分の3日(30分の1)をセンター試験に費やしていることになる。

 

そのぐらいたいしたことはないと考えるのか、自由時間の30分の1が費やされていると考えるのかは人によるだろうが、私自身は貴重な時間を奪われていると感じる。自由時間の中には、学会出張や研究活動、家族と過ごしたり、ペットに餌をやったり、趣味を行なったり、本を読んだり、より人生を豊かにするべき時間も含まれている。

 

そこでセンター試験の試験監督を行うことをポジティブに考えてみる。

・頑張っている受験生の姿を見る事ができる。

・自分自身がセンター試験を受験した時の事を思い出し、若かりし頃を振り返ることができる。

センター試験の問題をいち早く見る事ができる。(しかし昨年より著作権保護のため問題用紙を持って帰れなくなった。)

・試験監督を学内の教職員と運営する事で一体感や達成感を感じることができる。

 

などであろうか。

 

センター試験改革が検討されており、2020年からセンター試験がなくなり、大学入学希望者学力評価テスト(仮称)と高校基礎学力テスト(仮称)の両方で入学者を選抜する事になる。思考力、判断力、表現力の3要素を評価できるテストが行われるよう準備が進んでいるようだ。  いずれにせよ新しい時代にマッチした試験が効率よく行われ、大学入学の選抜が行われることが望まれる。そして、大学教職員の手間を軽減出来れば、なお、素晴らしいと思う。 

私自身は受験生時代にセンター試験で思うような結果を出せずに第一希望の大学には合格できなかった苦い思い出がある。しかも2年連続して。

しかし、今では大学の教員となり、学生を指導する立場にあり、研究計画を立て外部資金を獲得し、統計ソフトを使いこなし、英語で国際学会で発表するし、英語の論文もパブリッシュしている。センター試験で失敗しても、第一希望の大学に合格できなかったとしても、勉強したことは無駄になっていないし、受験だけで人生が決まる訳ではない。もっとも重要な事は目標を持ち、それに向けて努力を続けることだと思う。受験生の時は本当に苦しかったと思うけどね。センター試験の改革によって、受験勉強には不向きだけれども研究熱心で、情熱があり、コミュニケーションがとれ、思考力、実行力、判断力に優れた人材を発掘し伸ばせて行ければと思う。そのためのセンター試験改革であるならば大いに賛成で協力したいと思う。

 

論文の査読

大学院生時代の苦い思い出がある.それは,初めて学術雑誌に論文を投稿した時のことだ.

 

投稿するまでに研究室の指導教員に投稿OKの返事をもらう必要があるのだが,相当の時間がかかった.指導教員のOKが出た後,投稿した後も査読結果が思わしくなくギリギリ首の皮一枚つながって再査読になった.2名の査読者の判定がB(再審査),C(不可)であったので3人目に査読が回りB判定であったので,なんとか再査読にこぎつけた.

その後も3回程,編集委員とやり取りをして投稿から掲載まで1年半ぐらいかかった.

 

研究室の先輩からも,論理的でないと指摘され何度も何度もやり直しを指導された.この経験は今では自分の財産になっているのだが,当時は何がいけないのか,素直に受け入れるのに時間がかかった.もうかれこれ,10数年前の話だが昨日のことのように覚えている.

 

そんな私が今,2つの学術雑誌の編集委員を担当している.編集委員の仕事は査読をする研究者を探してお願いをして,投稿論文に対して最終的な判断をする.若手の投稿者に伝えたいことはいつも決まっている.査読者は悪気があってコメントを書いているのではなく,前向きに改善することを望んでいるということだ.もし,甘い査読をして論文が掲載されたとしよう.その論文は投稿者の一つの業績になるかもしれない.しかし,内容が論理的でなかったり,分析方法が正しくなければ,間違った形で世にでることになる.そうすると,雑誌の発行者,つまり編集委員編集委員長は責任問題になるかもしれないし,投稿者自身はもっと大きな責任を問われる可能性もある.つまり,その論文の読者が内容を参考にして,次の実験を行ったり,教育に活用したりすることがあり,誤った情報が世に広がると非常にまずいことになる.

 

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だから,どのような研究誌であったとしても,基本的に正しいことは正しい,間違えていることは間違えていると伝えなければいけないのが査読者,編集委員の責任ではないだろうか.そうである一方,若手の研究者が行った研究の内容が論文になって,世の舞台にでることも重要だと思う.若手研究者ならではの研究の着眼点は面白くても,まとめ方がこなれていない為に論文にならずに,消えていくのはもったいないと感じる.

英語力を鍛える

 

日本人の私たちが海外に行くと苦労するのが語学である.特に英語は中学生から勉強しているにも関わらず,海外の方と実際に話したり,英語の書籍や論文を読んで理解するのは難儀する。

 

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語学の能力は,”話す” ”聞く” ”書く” ”読む” の4つの要素があるが,特に私が英語教育を受けた20~30年程前は ”読む” に特化していたように思う.

私自身もいつかは英語で会話したり,チャンスがあれば海外で仕事をしたいと考えて,これまでも何度も英語にチャレンジしては挫折を繰り返してきたので,その経験を今後のためにまとめてみたい.

 

私が受けてきた英語教育

  • 中学生時代(3年間):学校の授業,塾の授業 高校受験
  • 高校時代(3年間):学校の授業 大学受験
  • 予備校時代(1年間):講義、大学受験
  • 大学1,2年(2年間):講義
  • 社会人1~4年:英会話教室
  • 大学院生時代:英語論文を日本語訳
  • 35~40歳:不定期にインターネット英会話

 

こうやって振り返ってみると,いつにさかのぼっても英語を本気で長い期間,勉強してこなかったように思う.数年,数か月単位に,ちょっとやってはちょっと休んで,という具合なので一向に語学力がUPしなかったのだと思う.

コツコツやることが大切なのはわかるが,英語を専門とするわけではない私が英語学習に時間を費やすぐらいなら,もっと優先順位の高い時間の使い方があると思ってきた.

 

それが,この最近,少しは英語で話したり聞いたりできるようになってきているのではと感じることもある.もし,トータルの学習時間が一定の語学力をつけることに大切なのであれば,30年近くかけてようやくその域に到達してきたのかもしれない.あるいは,この数年取り組んできたインターネットの英会話が良いのかとも思っている.

 

日本人で生まれた以上,英語に対するコンプレックスを克服することはかなりハードルが高いかもしれないが,見えないゴールに向かって,勉強し続けて少しでも語学力を身に着けるしかないのだと思う.一番大切なのは,学習の方法論ではなく英語力をつけたいと思うモチベーションを維持することなのかもしれない.

国際学会に参加する意義

先日,国際学会に参加してきた.

学会に参加した目的は,1)自身の研究発表を行う,2)世界の新しい情報を得る,3)国内外の専門家との交流,4)訪れた国の風土に触れる,などであった.

 

私は今までに国際学会で何度か発表してきたが,自分で言うのもあれだが,発表自体にはそれほど問題ないと感じてきた.英語力の問題もあるのだが,発表は原稿を作成して練習をしていれば何とかこなせると感じる.しかし,問題は発表後のディスカッションタイムである.最近の傾向として口頭発表はディスカッションタイムが長くとられていると感じる.ネイティブとの議論で研究の詳細について,質問の意味を理解し的確に回答することが求められる.しかし,この質問の意味を理解することがなかなか難しかったりする.文化的な背景が異なったり,英語になまりがあったりするとなかなか理解しづらい.特に今回は,マイクの話し声がスピーカーを通して会場全体にはいきわたるが,舞台には届きにくく,発音が聞き取りにくく感じた.いや,しかし,そのような状況でも的確に英語を理解することは求められる.語学力アップについては別の機会にまとめたいと思うが,多くの日本人にとって国際学会での発表は英語力が一番問題となることは間違いない.

 

特に私が専門とする分野では,北米,欧州,豪州が進んでいる.進んでいるというよりは,研究にかける予算が,わが国に比べると一桁,いや二桁ぐらいことなる.私が科研費で何百万円かで行っている研究を,数千万~数億はかけているという印象は受ける.だがしかし,研究はお金を掛ければ良いってものじゃない.小規模でも新しい視点や大事なテーマに取組むこともできるし,インパクトのある内容でアピールすることもできる.そこはアイデア次第だろうが,国を動かすような巨大プロジェクトにはやはり予算は最重要だ.

 

国際学会に来ると必ず交流の場が用意されている.立食形式の休憩所でコーヒーブレイクの時間が設定されていたり,特設会場でディナータイムがあったりする.そのような場面で,海外の研究者と名刺交換をしたりディスカッションすることは大変有意義だ.また,国内の研究者とも国際学会でより密な議論をすることもできる.せっかく国際学会に来ているのだから,国内の人とばかりつるまないで,海外の研究者と交流するべきだという意見もあるだろうが,国内の研究者と交流を図りチーム日本としての結束力を高めることも有意義ではないだろうか?

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最後に訪れた地域の風土に触れることだが,学会には出張できているので仕事をしている以上,学会会場とホテルの間しか行き来してはいけないということが理想なのかもしれない.しかし,空いた時間に観光に行くことは許されるべきであろう.そこに住む人々の暮らしや歴史,文化に触れることは絶対的に必要なことだ.そうでなければ,WEB会議でも良いし,論文だけ読んでいれば比較的新しい情報を手にすることができる.国際学会に来ている以上,その国の文化や風土に触れ,自身の研究とのつながりや各国の情勢などぼんやりと考えることも必要だと思う.

 

人間の思考回路は同じ環境にいては,段々と固定化してくるように思う.新しい環境や人との出会いなどの刺激を受けて,それを今までの自分の思考と組み合わせることで,アイデアを成就させ次の研究に取り組むことが有効だろう.そのように考えると国際学会への参加は大変有意義で年に何回かは海外に出かけられることが理想だと感じる.